もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー本来の仏教を考える会
推薦図書
森章司「原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究」
東京堂出版、1995年。
森氏は、原始仏教の教理と修行道の双方を研究され、縁起は、原始仏教教団の修行道に組み込まれていなかったことをあきらかにされた。
仏教の教えは何かと問われれば、縁起をもって答える者が多いであろうが、南方上座部においても説一切有部においても、ほとんど無視されているといっても過言ではない。−−−−
即ち原始仏教経典においては、「如実知見」の対象として縁起が示されることは皆無であったということである。(1)
このようなところから[縁起]は、これを理解し観察することは通常の凡庸なものには難しい、仏のような特定の資質を有するものの占有物であるという印象を与え、こうして説一切有部では、縁起現観は仏の占有物であるとされるようになり、弟子たる声聞の修行道には縁起は組み込まれなかった。(2)
原始仏教においては、智慧=如実知見によって証されるべき具体的な真実は四諦であり、無常・苦・無我であって、縁起ではなかった。(3)
縁起説は、悟りの内容ではなく、迷いの世界を説明するものとされた。
縁起説の位置づけは、迷いの世界を説明しようと、したものであり、悟りは「縁起」ではなく、それが滅し、それを超えた世界であって、あくまでも「縁滅」でなければならないというにあるーー。(4)
「縁滅」は「苦」のない根源であろう。そこを体験して、人間の根源を知る。これは、悟りの体験がなければ、仏教がわかったとはいえないという臨済宗の立場や道元も強く悟道を強調していたという解釈に通じるものである。原始仏教でも、仏教とは、本来、縁起説を理解するだけのものではないという研究成果である。
また、原始仏教における「寂静」「涅槃」の語義についても、検討し、次のように結論された。
以上のように釈尊の教えは、万人が涅槃に達することを教える教えであった。そしてその涅槃は、釈尊の涅槃と何ら異なりのない涅槃であり、しかもこの世で現世のういちに悟るものであり、それは不死と言い換えられるように、むしろ常・楽・(我・)浄と把握されるべき積極的内容をもつ境地であったのである。(5)
成道、真見道の体験は、自我のないこと、苦などへの縁もないことを経験することにより、我がない、つまり、無我を実証する。そこから、苦悩することへの心がわかり、苦の縁を滅することを他者に教え、他者を救済できる。
また、自我がなければ、不生であり、不生ならば不死である。不生は盤珪が主張した。このように、日本の禅も原始仏教と同じく、誰でも縁起説の理解ではない、別の修行によって、涅槃の境地を得ることができるものである。それが、また、原始仏教の研究者によって確認された。
この研究書の中には、大乗仏教で強調された思想に通じる言葉も紹介されていて、原始仏教、大乗仏教、日本の禅とが通じるものであることが推定される。
注 (1)468ページ。
(2)530ページ。
(3)146ページ。
(4)561ページ。
(5)663ページ。
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